11月に挑戦した豊間根の穴乳観音様
穴乳観音様とは、ざっくりいうと1500年代の武士の奥様が家臣に助けられ落ち延び、出産した場所です。
残念ながら出産した男子は息をしてなく、悲しみにくれた奥方が持っていた十一面観音像を奉り後世難産や乳が出なくて困る人々を助けたまえと願いました。
それからその地を詣でると霊験あらたかなれば「穴乳観音」と呼ばれるようになったということです。
穴乳観音様は、豊間根荒川地区から西に、多久里の滝からさらに奥地にあります。
頑張って行ってきました。
途中里宮がありました。


石碑には由来が記されています。
されに西に進み、進み、

美しい豊間根川渓流に目を奪われながらもさらに進むと…着きました。

平成の狛犬さんです。



弁牛和尚の碑もあります。

この場所から15分ほど登ると目的の地。
近くの枝を拾い杖にして歩き始めました。

斜面をジグザグに登っていきます。
枯葉がクッションになり歩きやすいかと思いきや、滑りやすくて気を抜くと転がり落ちそう。
休憩を入れながらなんとか到着。25分かかりました。
15分とはジオやこちらの探索シリーズでおなじみ道又師匠のペースでございました。

斜面下から見上げています。
石碑の向こうに洞窟の入り口が見えます。


左の方に奥行きのある洞窟があり、右側には観音様がいらっしゃいました。

御神酒や掃除用具もあり、管理されているようでした。

この石碑は「払川城主供養碑由来」とあります。
家臣に連れられて逃れてきたのは、当時払川城主であった一戸鬼九郎行重(いちのへおにくろうゆきしげ)の奥方様でした。
天正十一年(1583年)、鬼九郎行重は年賀のため訪れた本家の仙徳(千徳)城主一戸治郎善勝に謀殺され、妻子は生き延びた家臣に連れられ豊間根まで逃げてきました。
この碑によると、昭和四十一年に国道建設工事の祭土盛工事のため瑞雲寺の参道側を掘削したところ、鍵が付いた木棺を発見。木棺にはこの地をおさめていた一戸鬼九郎行重の遺骨が納められていました。
穴地観音の氏子の皆さんで相談し、遺骨を分骨して妻子が隠遁したこの地に埋葬しということです。
石碑の文面は以下のとおりです。
里宮の石碑
津軽石拂川館 鬼丸郎行重 天正十一年正月
十一日 津軽石川鮭ノ事ヨリ仙徳館一戸善勝
ト〇ヲ生シ 仙徳ニテ誘殺セラレ十五日夜
中拂川館落城ス 行重ガ忠臣共奥方並遺子ノ
奉シテコノ地ニノガル タマタマ奥方御懐妊
ノ処コノ騒出デ来 コノ山奥ノ岩穴ニテ事切
レシ男子ヲ誕生ス 奥方ニハ
なき人をしのぶが上にお〱つゆ(おおつゆ)の
〇〇しにつけてぬ〇ゝ袖かな
ト悲シミヲ歌ニ詠マレ持仏十一面観音ヲ勧
請シ奉リテ 後世 難産乳不足ニテ困ル人々
ヲ歓ハセ給ヘト丹勢祈誓ヲコメテ御記念アラ
セラル 以来三百五十余年参詣諸人ニ霊験ア
ラタナレバ穴乳観音ト申シ崇敬シ奉ル
昭和十四年五月十七日 豊間根村
外信〇一同
*〇は判読不明
「払川城主供養碑由来」
昭和四十一年国道本十五号線土
盛工事ノタメ瑞雲寺参道側ノ土
砂掘サク中錠前付キノ木棺ヲ発
掘セリ 是レ天正年間此地ヲ統
治セル払川城主一戸鬼九郎行重
ノ遺骨ヲ納メタルモノナル故
穴乳観音ノ氏子共相図リテ右ヲ
分骨シ 妻子ノ隠遁セシ謂漆キ
此聖地ニ埋葬シ 碑ヲ建テ永ク
供養スルモノナリ
昭和四十六年皐月
別当 阿部貫一代
荒川氏子連中
佐々木恒雄撰書
天正十一年の事件ですが、その一年前の天正十年(1582年)には「本能寺の変」がありました。
安土桃山時代です。
(千)
穴乳観音様とは、ざっくりいうと1500年代の武士の奥様が家臣に助けられ落ち延び、出産した場所です。
残念ながら出産した男子は息をしてなく、悲しみにくれた奥方が持っていた十一面観音像を奉り後世難産や乳が出なくて困る人々を助けたまえと願いました。
それからその地を詣でると霊験あらたかなれば「穴乳観音」と呼ばれるようになったということです。
穴乳観音様は、豊間根荒川地区から西に、多久里の滝からさらに奥地にあります。
頑張って行ってきました。
途中里宮がありました。


石碑には由来が記されています。
されに西に進み、進み、

美しい豊間根川渓流に目を奪われながらもさらに進むと…着きました。

平成の狛犬さんです。



弁牛和尚の碑もあります。

この場所から15分ほど登ると目的の地。
近くの枝を拾い杖にして歩き始めました。

斜面をジグザグに登っていきます。
枯葉がクッションになり歩きやすいかと思いきや、滑りやすくて気を抜くと転がり落ちそう。
休憩を入れながらなんとか到着。25分かかりました。
15分とはジオやこちらの探索シリーズでおなじみ道又師匠のペースでございました。

斜面下から見上げています。
石碑の向こうに洞窟の入り口が見えます。


左の方に奥行きのある洞窟があり、右側には観音様がいらっしゃいました。

御神酒や掃除用具もあり、管理されているようでした。

この石碑は「払川城主供養碑由来」とあります。
家臣に連れられて逃れてきたのは、当時払川城主であった一戸鬼九郎行重(いちのへおにくろうゆきしげ)の奥方様でした。
天正十一年(1583年)、鬼九郎行重は年賀のため訪れた本家の仙徳(千徳)城主一戸治郎善勝に謀殺され、妻子は生き延びた家臣に連れられ豊間根まで逃げてきました。
この碑によると、昭和四十一年に国道建設工事の祭土盛工事のため瑞雲寺の参道側を掘削したところ、鍵が付いた木棺を発見。木棺にはこの地をおさめていた一戸鬼九郎行重の遺骨が納められていました。
穴地観音の氏子の皆さんで相談し、遺骨を分骨して妻子が隠遁したこの地に埋葬しということです。
石碑の文面は以下のとおりです。
里宮の石碑
津軽石拂川館 鬼丸郎行重 天正十一年正月
十一日 津軽石川鮭ノ事ヨリ仙徳館一戸善勝
ト〇ヲ生シ 仙徳ニテ誘殺セラレ十五日夜
中拂川館落城ス 行重ガ忠臣共奥方並遺子ノ
奉シテコノ地ニノガル タマタマ奥方御懐妊
ノ処コノ騒出デ来 コノ山奥ノ岩穴ニテ事切
レシ男子ヲ誕生ス 奥方ニハ
なき人をしのぶが上にお〱つゆ(おおつゆ)の
〇〇しにつけてぬ〇ゝ袖かな
ト悲シミヲ歌ニ詠マレ持仏十一面観音ヲ勧
請シ奉リテ 後世 難産乳不足ニテ困ル人々
ヲ歓ハセ給ヘト丹勢祈誓ヲコメテ御記念アラ
セラル 以来三百五十余年参詣諸人ニ霊験ア
ラタナレバ穴乳観音ト申シ崇敬シ奉ル
昭和十四年五月十七日 豊間根村
外信〇一同
*〇は判読不明
「払川城主供養碑由来」
昭和四十一年国道本十五号線土
盛工事ノタメ瑞雲寺参道側ノ土
砂掘サク中錠前付キノ木棺ヲ発
掘セリ 是レ天正年間此地ヲ統
治セル払川城主一戸鬼九郎行重
ノ遺骨ヲ納メタルモノナル故
穴乳観音ノ氏子共相図リテ右ヲ
分骨シ 妻子ノ隠遁セシ謂漆キ
此聖地ニ埋葬シ 碑ヲ建テ永ク
供養スルモノナリ
昭和四十六年皐月
別当 阿部貫一代
荒川氏子連中
佐々木恒雄撰書
天正十一年の事件ですが、その一年前の天正十年(1582年)には「本能寺の変」がありました。
安土桃山時代です。
(千)
コメント