山田とことこ日記

岩手県のリアス式で有名な三陸海岸のど真ん中「山田町」にある山田町観光協会の公式ブログ(vol.3)です。 山田の観光情報、おすすめスポット、旬の話題、復興状況など発信してまいりますのでよろしくお願いします!

カテゴリ: 石碑

4月のちょっと晴れた日、大沢の弁天様に行ってきました。

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ちょうど干潮の時間だったようです。

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手前の岩礁に植樹された松。大きくなっています。

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橋を渡って
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海側に回ってお詣りしました。
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向かって左に石碑があります。

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先にもご紹介した「八龍王」の石碑ですね。
八龍王 天保 八年   (1837)
八龍王 明治 二十一年 (1888)


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2023年4月の弁天様でした。

(千)

山田湾に浮かぶ無人島、オランダ島にも石碑が建てられています。

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左端をよく見ると

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石碑が建っています。

八龍王
嘉永葵丑年正月吉日(1853)


山田町には龍神・龍王・八龍王の石碑があります。
山田町史には
「想像上の動物で、仏法及びその信者を守り、時には雨を降らして五穀を扶けるといわれ、龍仲間の王者を龍王、龍神と呼ぶ。八大竜王は八人で、この中のとくに有名なのが難陀龍王(なんだりゅうおう)と跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)で二人は兄弟で、常にマカダ国を守り、釈尊が生まれたときは甘露の雨を降らしたといわれ、常に仏の説法の座に連なり、入滅の後は永く仏法を守るといわれる。
いつのころからかわからないが漁師の拝む神様となった」
とあります。

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山田町には全部で十二基あるそうです。


(千)





豊間根に珍しい虫供養の石碑があります。

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向かって右側が虫供養碑です。

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天保十五年(1844)。

山田町史には、「むかしは『虫追い』という行事があり、追われた虫の供養をしたものなのだろうか、山田ではこの一基だけが確認されている」と記されています。


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左から「馬頭観世音 明治二十二年十一月二十日」「庚申塔 嘉永七申寅十二月申日」「虫供養 申天保十五年辰四月八日」です。

(千)


田の浜地区の昭和九年に建てられた津波碑は、2011年の東日本大震災によって台座から外れて倒れてしまいましたが、令和3年(2021年)に現在の場所に移設されました。

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2016年05月30日のとことこ日記に倒れた状態の石碑について触れています。
http://yamada-kankou.sblo.jp/article/175491523.html
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裏面
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ここからの景色
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2019年の台風で水害を被った田の浜地区。
現在の様子です。
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山からの排水に対応するための開口部。避難路兼用。

反対側から
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公園内を歩いていたらこんな看板が立っていました。
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タブノキ・ケヤキなどが植樹されていました。
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20年後には命を守る森になるでしょう。


(千)

山田の石碑をお伝えするシリーズ

船越 海蔵寺にある石碑です。

海蔵寺は東日本大震災によって倒壊しました。
今は再建され、転倒していた石碑も建て直されています。

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三陸大海嘯(かいしょう)溺死者慰霊塔(昭和九年五月)

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昭和八年の三陸大津波の慰霊塔です。
写真だけでは文字がよくわからないのですが、「昭和八年三月三日に津波が襲来し、船越村は二百十一戸流失、十七戸半壊、溺死者五名」とあります。

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裏面の内容

本慰霊塔ハ全國各地ノ篤志者ヨリ寄託セラ
レタル義損金ノ内ヨリ特二海嘯溺死者ノ弔慰
施設費トシテ指定シ縣ヨリ配分セラレタル
義捐金ヲ以テ建設セルモノナリ
昭和九年五月
下閉伊郡舩越村長鈴木吉平誌



慰霊塔の隣に2基あるのですが、文字が読み取れませんでした。

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右側、裏面には昭和四十四年建立とあります。
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海蔵寺には山田町内でおそらく最古であるといわれる「板碑」がありました。
記録によると「正和二二年四月二日」と記されていました。1315年!

残念ながら震災で流れてしまいました。

2017年の「山田湾まるごとスクール」にて写真を見ることができます。
http://sawarabiy.web.fc2.com/180902/102-3.html


(千)

山田の津波碑シリーズ、今回は山田八幡宮入り口にある津波碑です。

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鳥居の左側、灯篭の後ろに建立されています。ギリギリ見えます。

鳥居をくぐってから左を向くと全景が見えます。

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昭和三陸地震(昭和8年・1933年)の津波記念碑です。
建てられたのは1935年。

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伝承内容はほかの津波碑と同じく箇条書き。

津波記念
一 大地震の後には津浪が来る
一 地震があつたら髙い所へ集まれ
一 津浪に追はれたら何所でも此所
  位髙い所へのぼれ
一 遠くへ逃げては津浪に追付かる
  近くの髙い所を用意して置け
一 縣指定の住宅適地より低い所へ
  家を建てるな
     石巻市 石井敬三郎刻


石碑裏面。今まで紹介した津波碑とは違い長文です。
頑張って読んでください。

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奮勵努力は事業成功の基礎にして和衷協同は集團福祉の源泉なり
顧れは昭和八年三月三日三陸沿岸に襲來せる大津波は轉瞬の間に二千五百の人命を殞し二萬の家屋を流壊し三千六百の船舶を流失せり而して我山田町は死者七人傷者二十六人流潰家屋三百二十餘戸流損舩舶二百七十隻其の他被害擧けて數ふべからず惨亦極れり不肖乏きを本町長に承け在任未た六旬ならざるに此の大惨害に遭ひ災後の復舊復興を畫策遂行せざるべからざるの重任を負ふ微力菲才固より其器に非すと雖も町民と協心戮力し至誠事に従ひ一意成績を擧くるの速ならんことを期せり
此の大變災の雲上に達するや畏くも
天皇陛下 皇后陛下には深く御軫念あらせられ大金侍従を御差遣遊ばされ小職に對し實に有り難き御見舞の御傳旨を賜はり唯々感涙に咽ひたり是れより罹災地を巡視せられ満洲派遣兵の罹災家族に面接御慰問の御言葉を傳へらる また両陛下より御内帑金御下賜あり次いて 皇后陛下より傷病者に對し御賜品あり一同天恩の優渥なるに感泣せり又之れに次いて全國同胞の義捐に係る多量の金品を受く皆其厚意深情に感激せざるなし是に於て我々六千八百の町民は斯の有りがたき御聖旨に奉答し深厚なる同胞の情意に酬いんかため従來町の煩ひを為せる黨同伐異の弊風迹を潜め一致協力復舊復興に勇往邁進せんとするの意氣頓に昂まれるは實に本町將來の發展に資する所以にして慶すべきの事たらずんばあらす仍て茲に東京朝日新聞社より配當の義捐金を以てこの
記念碑を建て災害の概況及善後措置の大略を記し以て後昆に告く
  昭和十年三月三日    山田町長七位勲七等石川敏藏撰
                      新渡戸仙岳書


津波到着年月日と被害状況、天皇、皇后陛下の御見舞いそして義援への感謝が述べられています。



(千)

山田町の津波碑シリーズ続きます!


船越の山の内地区の津波碑です。

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国道45号線沿い、バス停南長林からちょっと南、横道に入ってすぐ目に入ります。

石碑群の左端が津波碑です。

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大海嘯記念
一 大地震の後には津波が来る
一 地震があつたら高い所へ集まれ
一 津波に追はれたら何處でも此所
  位の髙い所へ
一 遠くへ逃げては津波に追付かる
  近くの高い所を用意して置け
一 縣指定の住宅適地より低い所へ
  家を建てるな
      石巻市石井敬三郎刻




裏面は写真に撮ってないですが、資料によると以下の通りです。

昭和八年三月三日午前二時三十分上下ニ動揺スル強
地震アリ續イテ参時頃ヨリ大音響ト共ニ大津浪ノ襲來
アリ波浪ノ高十米三時十分頃最モ被害アリ被害戸数船
越區流失ニ十三戸半漬一戸死者三名田之濱區流失百
八十三戸半漬二戸床上浸水十一戸死者二名大浦區流
失五戸半漬十四戸床上浸水十六戸ナリ
本碑ハ東京朝日新聞社ヘ寄託ノ義損金二十余万圓ヲ
罹災町村ヘ分配シタル残額ヲモツテ建タルモノナリ
 昭和九年五月
  下閉伊郡船越村長 鈴木吉平誌



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石碑群は資料によると写真左から

南無妙法蓮華経(大正十一年1922)
梵字 (右)早池峰山(中央)巖鷲山(左)志和稲荷(弘化四年 1847)
象頭山(嘉永四年 1851)
百万遍供養塔(寛政十一年 1799)
馬頭観世音(嘉永四年 1851)
庚申供養塔(享保十四年 1729)
奉書大乗妙典一石一字供養塔(不明)
梵字 湯殿山(明治十六年 1883年)
梵字 庚申塔(寛政六年 1794)
梵字 (右)早池峰山(中央)巖鷲山(左)志和稲荷(嘉永四年 1851)


210年の間にまとめて移されたのか、最初からここにあったのかはわかりません。

(千)

山田の津波碑シリーズ。

今回は織笠の津波碑です。
旧織笠小学校の道路を挟んだ向かい側に建立されています。

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右が明治29年(1896)の「大海嘯記念碑」、左が昭和8年の「大海嘯記念」の石碑。

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大海嘯記念
一 大地震の後には津浪が来る
一 地震があつたら髙い所へ集まれ
一 津浪のくる前には海水がひける
一 遠くへ逃げては津浪に追付かる
一 近くの髙い所を用意して置け
一 住宅は津浪浸水線より髙い所へ
 石巻市 石井敬三郎刻
 
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昭和八年三月三日午前二時三十分上下ニ動揺スル
強地震アリ續イテ参時頃ヨリ大音響ト共ニ大海嘯ノ
襲來アリ波浪ノ高サ約三米ヨリ五米
織笠村ノ流失戸数一戸半漬十戸浸水六十戸溺
死者六名
此ノ記念碑ハ東京朝日新聞社ヘ寄託ノ義損金二十
餘万圓ヲ罹災町村ヘ分配セシ残額ヲ重テ分配セラ
レ其ノ金員ヲ以テ建設セシモノ也
 昭和九年三月
  下閉伊郡織笠村長 昆商平誌之

当時の村長は昆商平さんで(「誌之」は「之を誌す(これをしす)」)昆商平さんがこれを記したという意味です。

前面には他の津波碑には見られない一文があります。
「一 津浪のくる前には海水がひける」
織笠からは海水が引ける様が特によく見えたということでしょうか。


向かって右側の「大海嘯記念碑」の碑文については、解読したサイトがありましたのでご紹介します。
ひかり拓本データベース
https://takuhon.lab.irides.tohoku.ac.jp/hibun/detail/iwate97/


(千)



山田町の津波碑シリーズ

今回は大浦の津波碑です。

大浦漁村センター前に建立されています。

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右が昭和8年三陸大津波の「大海嘯記念」碑です。
(当時の横文字は右から左へ読みます)

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一 大地震の後には津波が来る
一 地震があつたら高い所へ集まれ
一 津波に追はれたら何處でも此所
  位の髙い所へ
一 遠くへ逃げては津波に追付か畄
  近くの高い所を用意して置け
一 縣指定の住宅適地より低い所へ
  家を建てるな
      石巻市石井敬三郎刻
  
**(9月27日 漢字を修正しました)

昭和8年の大海嘯記念碑に記されている文字はだいたい同じ文面です。
しかしよく見ると漢字で記された部分が他では平仮名だったり微妙な違いがあります。


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昭和八年三月三日午前二時三十分上下ニ動揺スル強地震ア
リ續イテ参時頃ヨリ大音響ト共ニ大津浪ノ襲來アリ波浪ノ
高十米三時十分頃最モ被害アリ被害戸数船越區流失ニ十
三戸半漬一戸死者三名田之濱區流失百八十三戸半漬二戸
床上浸水十一戸死者二名大浦區流失五戸半漬十四戸床上
浸水十六戸ナリ
本碑ハ東京朝日新聞社ヘ寄託ノ義損金二十余万圓ヲ罹災
町村ヘ分配シタル残額ヲモツテ建タモノデス
 昭和九年五月
  下閉伊郡船越村長 鈴木吉平誌

各地区の被害状況が具体的な数字で残されています。
当時の村長は鈴木吉平さんで、「誌」は鈴木さんが記したという意味です。



隣にあるのは2011年東日本大震災の鎮魂碑です。

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鎮魂碑
平成二十三年三月十一日の東日本大震災の
三陸大津浪により山田地方は、瞬時にして
海も里も壊滅的な被害を受けた。
 この大津浪で大浦・小谷鳥地区では、三十三
名の尊い人命が犠牲となった。
 亡くなられた方々の御芳名を碑に記して
御霊の安らかならんことを祈念するとともに
御霊に報いるためにも、大浦漁村づくりの
力強い振興を誓いここに建立する。
 平成二十七年三月十一日
  大浦漁村づくり振興協議会

裏面には、亡くなられた方(大浦地区17名、小谷鳥地区18名)の御芳名が記されています。


大海嘯記念碑の右側の石碑は百万遍供養塔です。

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 文化十四年丑四月吉日
百万辺供羪塔

**(文化十四年は1817年)

百万辺(百万遍・ひゃくまんべん)と聞いて思い出すのが、大浦地区の祭儀に加わった際に「大きな数珠を数人で念仏を唱えながら回した」ことです。
「なんまんだ~ぶつ」と唱えながら巨大な数珠を左へひたすら回していくのです。
女性のみの参加で、数珠の輪の中にはお念仏の人が二人座り数珠が一周するごとに手元の巾着から小さい石のようなものを広げ(多分数えてる)、百周したら終了。


「コトバンク」には
「③ 京都の知恩寺で修する仏事。一〇人の僧が一〇八〇粒の大数珠を繰り回しながら念仏を一〇〇回(あわせて百万遍)唱えて極楽往生を願うもの。後には一般在家にも広まった」
とありますが、これですね。百万遍念仏といわれます。

そして、百万遍供養塔について調べたところ、全国の供養塔の説明には「念仏百万遍読誦を成就した記念に建てられた」とありました。

石碑にはその土地の歴史が刻まれているのですね。


(千)






山田町にある津波碑。
「津波が来たら逃げろ」など自然災害の教訓などを後世に伝え残すために作られました。

町内にある津波碑を少しずつ紹介していこうと思います。
今まで紹介した津波碑はこちら
田の浜の大海嘯記念
http://yamada-kankou.sblo.jp/article/175491523.html


今回は大沢にある津波碑「三陸大海嘯記念」です。
海嘯(かいしょう)は津波のことです。
大沢公園内にあります。

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建立されたのは津波の一年後の昭和9年3月3日です。
**昭和の三陸沖地震は1933年(昭和8年)3月3日2時30分発生、30分後に津波が到達しました。
(明治の三陸地震は、1896年(明治29年)6月15日)


前面に記されている文字。

 一 大地震の後には津浪が来る
 一 地震があつたら髙い所へ集まれ
 一 津浪に追はれたら何処でも此処位の高い所へ
 一 遠くへ逃げては津浪に追付かる
   近くの髙い所を用意して置け
 一 縣指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな


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裏面にも文字が刻んでありますが残念ながらよくわかりませんでしたふらふら
調べると、時系列と被害状況、溺死者一名等と記してあるようです。


図書館で裏面の文字を書きうつした資料を見つけました。
以下の文面。

昭和八年三月三日午前二時三十分上下ニ動揺ス
ル強震アリ續イテ三時頃ヨリ大音響ト共ニ大海
嘯ノ襲来アリ三時十分頃最モ被害アリ
大澤村ノ流失戸数七十二戸半漬三十三戸溺死者一名
本碑ハ東京朝日新聞社讀者ヨリ寄託セラレタル
義損金ヲ同社ニ於テ罹災各町村ニ分配セシ残餘
ヲ重ネテ分配セラレ其金員ヲ以テ建立セシモノ也
 昭和九年三月三日建設
  下閉伊大澤村長
    大久保喜重治誌

当時の村長が大久保喜重治さんで、「誌」は大久保さんが記したという意味です。



近くの南陽寺には「三陸大海嘯溺死者慰霊塔」があります。

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ここでは津波碑と呼んでいますが、国土地理院では「自然災害伝承碑(しぜんさいがいでんしょうひ)」として地図記号を制定してウエブ地図などに掲載を進めています。
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国土地理院 全国の自然災害伝承碑はこちらから探すことができます。
https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/denshouhi.html

(千)

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